まるで塵のように、抱えた荷物を橋の上から落とす。危ないだろうと声を荒げる船頭を意にも介さず、次に降ってきたのは金属の鈍光を放つ何か、懐中時計だろうか。風呂敷からひとつ手にとっては、それを濁流に呑み込ませる真黒な女、高杉はちらりとそれを認めると、船頭が差し出した傘を受け取り岸に降りた。 舟で下ってきた濁流、その川縁を再度上り派手な羽織を翻して、高杉が彼女の元に辿り着く頃には、既に風呂敷には何一つ残っていなかった。彼は女から少し離れ暫しその姿を眺めていたが、やがて、ゆっくり歩を進め呼びかける。 「おい、女」 のろのろと振り返った女は高杉をぼんやりと見つめ、無言で何の用だと問う。喪服に真っ白な肌が映え、纏め上げた髪が零れ落ち張り付く項に僅か欲を煽られる。と同時、彼女がついこの間死んだ真選組参謀の内縁の妻であることを思い出した。表情の欠片もない作り物のような顔立ちより、着物と同じく真黒な髪を、高杉は一目で気に入った。 刀を携えた高杉とずぶ濡れの女をどう思ったか、それでも宿の店主は引き攣った接客用の笑みを何とか作り、彼らに部屋を貸した。 休憩所と言えば聞こえはいいが、要するにただの連れ込み宿である。安普請の建物は時折防ぎきれない情事の音を響かせ、それが一層2人に流れる静寂を目立たせる。さして雑音を気にも留めず、高杉が乱暴に狭く埃っぽい畳へ力の無い身体を放った。 彼女は何も言わない。言わなかったが、彼は唐突に理解した。彼女は知っているのだ。 「伊東は、」その言葉にほんの少しだけ肩を震わせ、かんばせに色を宿した彼女の傍らに高杉は座した。先刻尻餅をついたままの滑稽な体勢を、これまた乱暴に腕を引くことで元に戻してやる。ある種理解され難い感性を持つ高杉にとって、彼女は人形のように姿勢を作る方が美しく、好ましかった。一切の無駄を切り捨てた動作でゆっくりと正座する彼女に目を細めつつ、再度高杉は口を開く。 「伊東は最期まで、お前を顧みなかっただろう?」 女独特の香が水に混じって漂う。彼女は頷きもせず、唇を微かに動かし肯定した。隻眼に映る彼女を高杉は酷く憐れに思う。久々にそう感じた。しかし所詮他人事、高杉の表情に表れることもなかったので、結局すぐにそれは風化する。 いずれ浚われなくなってしまうのなら、最初からなければいい。昔手を取った彼らには解らないようだったが、或いはこの女も、そう思っているだろうか。高杉は彼女の濡れた黒髪を見詰めながら自嘲した。 伊東鴨太郎という男は全く以て最後まで難儀な男であったと高杉は記憶している。それでも真選組は伊東を捨てられず、終わりは副長直々に粛正されたとなれば、伊東と懇意な間柄の彼女にも大方正直に全てを吐露したことを容易に予想できたし、実際その通りだった。つまり高杉が愛する者の仇であること、彼女は知っている。 飽きることなく長い間、結い上げられた黒髪を見続けていた高杉だったが、こめかみから流れる滴が頬を伝い顎を伝い膝に落ちて何度目かに、ふと腕を伸ばし白い首を掴んだ。半端に冷えた身体の温度は彼の掌より少し熱い。そしてその体温を感じ取るより早く、高杉は彼女を畳へ叩きつけるように倒し、頭を打ち顔を顰めた彼女を見下ろす。 「憎いか。」 「いいえ。」 「恨むか。」 「いいえ。」 「悔しいか。」 雨粒が透いた頬を滑る度、人形を泣かせたらこんな風だろう、と高杉は無意味な思考を巡らせる。手の内で脈を刻む身体は確かに生きているのに、彼女の時間は流れを止めていた。橋の上からあの懐中時計を捨てた時点で、若しくは恋人を失ったとき、はたまたそれよりずっと前か、高杉には判断の仕様がなかったものの、それは彼にとって問題ではない。このまま彼女が流れを無視し漂うのもまた一興、けれど願わくば、滅多にない美しい髪が白くなってしまわないなら、どんなにか良いだろう。 彼女は漸くひとつ、自分から首を動かし頷いた。高杉は静かに笑みを浮かべた。 彼女は果たして本当に拠り所となり得なかったか。 本人すら知らないと思えば、高杉は敷布に埋もれた黒髪を眺めまたしても同情したくなった。どうにも彼女を自分に重ねているようである。ごく稀に、今までも、こういうことがあった。大抵雨の日で、穏やかな時だったから、そうそう有り得るものではない。だから彼は甘んじてそれを享受することにしている。 夜の内は小降りだった雨が突然激しく降り出し、それに反応して、眠っていた彼女がそっと身を起こした。 「殺さないのですか。」 頬にかかった髪を鬱陶しげに背中へ払った彼女は、黙ったままでいる高杉を意にも介さず濡れて台無しになった着物を手に取り羽織る。 「殺されたいか。」 言った後で、嗚呼間違えたな、と彼はぼんやり思ったが、面倒なのでそのままにしておいた。 彼女の長い髪が元の位置に結い上げられる。襟から覗く項が骨を浮かべているのに、高杉は何とはなしに溜息を吐いた。 「壊しはしねえさ。」 立ち上がり、来た時と全く変わらぬ彼女を、高杉は見下ろした。「奴の忘れ形見なら尚更。」 表に出ると、昼間だというのに空は重く暗い。 彼はしばし一度差した傘の下から曇天を見上げていたが、やがて人気の無い道を昨日とは逆に進み出す。そうして彼女と出会った橋まで来た時、濡れた足を止め再び傘を上げた。 本当はあの時、彼女は手の内の遺品を全て捨てた後、自分の身も投げるつもりだったのかもしれぬ。 高杉はうねる濁流を覗き込み、今になって漸く泣いているであろう彼女を笑った。自分の最後の言葉に見開かれた双眸を笑う。もう憐憫の情など消えていた。 それでも少し、ほんの少しだけ、あの美しい髪は惜しいと思いながら、彼は橋を渡り切る。雨はまだ、止まない。 霤 200100305 |