「お帰り下さい高杉様」 白梅香を纏ったこの可愛げのない人物が目を細める様は一番の気に入りだ。 喜怒哀楽の内怒の情が滅多に表へ出ない女が唯一、感情の昂りを訴える手段だと思うと可笑しくて堪らない。 怒鳴る勢いも泣き喚く器用さも持ち合わせず只管に内に溜めこんで、静かに昇華されるのを待つばかりのこの女、名をという。 さっさと帰ってくれと、己に娼妓として最低な物言いが出来るのはくらいである。 その思考に釣られるまま笑ったのが気に食わなかったのか柳眉が僅かに寄った。 「来て早々帰れたァいい度胸じゃねぇか。」 「今日は駄目です。 後生ですから今日だけは、」 「真選組にバレねぇように茶屋遊びは止めて逃げろって?」 一気に見開かれた眸が瞬きをする前に頭ひとつ分低い小さな身体を突き飛ばす。 後ろ手で障子を閉めれば外の雨音しか聞こえなくなり、無様に尻餅をついたが呆然と此方を見上げた。 会合と称しのうのうと遊ぶつもりだったろう幕僚どもは運がなかったとしか言い様がない。 己が来た今日を指名しさえしなければ下の階の大広間を貸し切って楽しめていたのに。 それなりに歌舞音曲に通じたを欲しがるのは皆同じらしい。 「ま、さか」 「クク、聡いなァ。 頭の回る女は嫌いじゃねぇ。」 が殊更嫌う刀を握る手を伸ばし餓鬼にするように頭を撫で、ひとつ頬に唇を落とすと紅を引いた唇をキシリと噛んだ。 素性を明かしているとは言え、血の匂いを引き連れ会うのは初めてだったかもしれない。 畳に散った真っ赤な帯が血の流れに見える。 斬ってしまえば幾らか楽だろうにそれが出来ない滑稽さといったらない。 「………高杉様、お早く」 「時間はあるぜェ? 逃げ果せる手も斬り伏せる手もねぇお前と違ってなァ。」 「、!」 左頬を打とうとした手が止められるや否や瞬時に左手を振り上げる辺り、この女は冷えた思惟を巡らせる常の慎重さとは縁遠い激情も一応はあるらしい。 奥歯を砕けんばかりに噛み締めたの震える両腕を掴んだその時、階下で女の悲鳴が上がった。 「それは聊か傲慢過ぎませんか。」 「さあな。」 閏事でも滅多に拝めない涙が暗褐色の目に薄い膜を張っている。 小刻みに震える腕と唇は惨めさに泣きたい訳ではなく、昇華し切れず溜めに溜めた感情が零れ落ちようとしているだけなのだろう。 それを遮る喧騒が階段を隔てた下の広間で無遠慮に広がり、雨音と同じくらい無粋なサイレンが響き渡る。 少し視線を上げれば窓の欄干越しに赤いネオンが忙しなく周囲を照らしていた。 手を伸ばしさえすればこんな籠だか檻だか判らぬ腐った住処から引っ張り上げてやるのに、女は決して己から誰かの手を取ろうとはしないでいる。 こうして不可抗力のもと細い手首を掴んだところで何の意味もなかった。 部屋の明かりを反射し爛々と輝く涙目が無駄な足掻きだと嘲笑う、がしかし飛んできたのは我を忘れた怒声。 「心配を、ッ私は心配をしているのに!」 「………」 「それすら許してはくれないのですか!? どうして、!」 ああ、自業自得だ。 自分でそこまで溜め込んだんだからなァ。 ひとつだけ白粉の上を滑った水滴に舌を押し付ける。 腕を回した背を片手で辿りながら首筋と唇、手首に口付けたところで閉めた障子が勢いよく破壊され、ある意味聞き慣れた御用改めの怒号が響く。 一滴とはいうものの涙を零しつつ怒るなど粋な真似をするが、私の目の届く場で死ぬような胸糞悪いことだけはしないでくれと呟くものだから思わず笑った。 数瞬で瞬く間に鎮火する神経が爆ぜる程の昂りさえ愛しいのだと、不意を突いて思い知った己を誤魔化す為の、それこそ滑稽な憫笑だった。 「お前の方が傲慢じゃあねェか。」 背後からの剣閃を避け窓の近くに立ち改めて見ると、囚人を囲う牢のような部屋だ。 欄干を斬り捨て雨に叩かれる瓦に足を置き肩越しに振り返れば、部屋に溢れる烏のような黒い色が極彩色の女を寸時に掻き消した。 傍ら痛し (私の為に死んでくれるなと、お前が傲然にもそう言うのなら) (自業自得の激情を、冷たいその手ごと掬ってやらんこともない) 20090709 |