与えられても上の空 死んでしまえと言ったら面白そうに喉を鳴らす。 この男はこうやって私を甚振って楽しむのが最近お気に入りらしく(まるで猫が鼠を弄るが如くに)、さっきまで走っていたのに脚を厭らしく辿る手は冷えきっていた。 と、逃げ疲れ息が切れた私が感じるだけかもしれない。 「今日は粘ったなァ?」 そもそも江戸においてコイツは指名手配中の攘夷志士なのになんでこう何度も鉢合わせするのだろうか。 今日だって私は使い(もといパシリ)でスーパーに来ていただけだ。 夕暮れ時で人の多い大通り、最早見慣れた着物を目に止めた瞬間確かに男は私に背を向けていたはずで。 何を求めているのだか知らないがそして高杉晋助という男は渇望している。 後ろ姿にさえうろたえ金縛りに遭い、その私をたっぷり間を置いて気配に気付いているくせわざとらしく振り返った表情には笑みが浮かんだ。 男のくせに女みたいな嬌笑を作るコイツが大嫌いだ。 それ以前に生命の危機を感じるが、とにかく奴が振り返った時私はやっと解けた足で反対方向に駆け出した。 人込みに紛れ屯所に帰ることはしかし叶わず5分も経たぬ内後ろから腕を掴まれ口を塞がれ、建物の隙間に引きずり込まれ今に至る。 薄暗い路地裏、いつの間にか手放したスーパーの袋、笑う男。 両手を封じられて動けないでいると、男のもう片方の手が顎を伝った。 「最近真選組に出入りしてるようじゃあねェか。」 出入りも何も女中としてバイトしてるんだから当たり前だと場違いな思考を巡らすのは頭がどうにかこの状況を拒絶しようとしているのだ、つまり現実逃避。 咎める(その筋合いはなくとも)内容の割に愉悦に満ちた囁きを落とされ息を飲むと男の細い指が首を撫で始めていよいよ怖くなった。 絞め殺すどころかコイツは本当に人を弄ぶ。 いつだって凌辱ではなく、最後に必ず求めさせて私のささやかな抵抗も逃げないことへの弁解も粉砕した。 これが恐怖を保っていられたなら私は可哀想な被害者として保身もできるし、快楽に跡形もなく飲まれてしまえば次の日意味のない所有印も笑い飛ばせる、なのに。 意味のない逃避のために触れる指から顔を背ければ破けたスーパーの袋からぐちゃぐちゃになった卵とマヨネーズと、ほうれん草とマヨネーズと、マヨネーズとかその他もろもろが覗いていた。 泣きそうになった。 けれど泣くとコイツは尚更興奮する性質らしいからやめておく。 忍ばせた懐刀も両手が使えねば役立たず、ならば私は今日こそ耐えなければならない。 そう決心した途端、奴が不意に目を細めた。 「………狗共が嗅ぎつけやがった。 よかったなァ、。」 「っひ、!」 遠くに聞こえるサイレンを耳が捉えると同時首筋につぅ、と這わされる生温い舌は決して許してなどいない。 男は気付いている、逃げる最中私が真選組に報じたのを。 私の袂から携帯を抜き取り思い切り踏み潰して心から楽しそうにまた笑った。 「見られながら犯してやろうか。 それとも」 “今度こそ逃げ切るか、この俺から” 男より先に追いつめられたのは私だ。 それでもふと、力のない両手を解放されて動けないほど参ってはいなかった。 素早く刃を抜くと顔を上げた男の幾分か細い首筋に押し付ける。 しかし、刃物と言えば包丁や鋏しか握ったことのない私の大き過ぎる抵抗を男は抑えるどころか気にもせず、震える懐刀ごと私の手を握ると忙しなく息を吐き出す唇を悪戯に舐めた。 次いで触れた唇は吐息も一緒に呑み込み、奴は私が必死に引っ込める舌を引き摺り出して柔らかく吸い上げる。 奴の舌に噛み付けば代わり下唇を噛み切られ私の血が垂れて、首の皮に食い込む合口拵の刃からも男の血が滴り、 「追いかけっこは終いにしようや。」 「本当は堪らねぇんだろ。」 「窮鼠猫を噛むたァよく言ったもんだが、」 「鼠にいくら噛まれようがただの掠り傷にしかなるめぇよ。」 なァ、と名を呼び嘲笑う男の喉笛を掻き切る手管は調っているというのに! 男が距離を詰めて隻眼を光らせ、再度舌が深く侵入を果たすのを尻目に十数台のパトカーが見向きもせず大通りを走り去った。 更に刃が男の肌を抉るのに自分が怖くなった私を見下ろし笑いながら、 「逃しはしねェ」 その呟きを聞きとるにはあまりに朦朧とした頭の中で、彼女はもし生きて帰れるならば金輪際副長の使いなどしないと密か誓う。 無意味で無価値な俗事に思考を巡らせるのはにできる最後の悪あがきであった。 鈴を付けられた鼠 逃げられぬよう、 見つけられるよう、 例えば潰れた左目の死角にいるお前を踏み殺してしまわぬよう 20080909 |