割と自己主張がなく受動的な私にとって、渡米を決めた両親について来て欲しいと頼まれれば逆らう選択肢は最初からない。幸い母方の祖母がアメリカ人で小さい頃から度々海を渡るおかげか、言葉や文化の差異には困惑しなかった。と言う訳で、卒業を前に私は高校を去ることになったのである。 幸いなことに必要な単位も出席日数も得られていたから、卒業は認められるだろう、と銀八先生は挨拶に来た母親に告げた。来客用の部屋となった校長室で、大きな革張りのソファに私は座って、窓の向こうの喧騒を眺める。横の母親によそ見をするなと小突かれながら、何を間違ったのか私の身長ほどはあるタイムカプセルを早くも校庭のど真ん中に埋めようとしているクラスメイト達を、初めて客観的に見てしまった。成程、自分が輪の中に居れば気付かないが、外から見れば問題児以外の何物でもない。沖田君と桂君がそれぞれ爆発物で穴を掘り始め、書類が並んだ机がびりびり震えた。母親はそこでようやく私を小突くのをやめ、窓の方を見やる。元気がいいですね、という世辞に銀八は溜息を吐いてすみませんと苦笑した。珍しく煙草を銜えていない。 「では残り少ないですが、最後まで宜しくお願いします。」 「こちらこそ。」 爆風でヒビが入った窓から視線を外さないでいれば、母親の温かな手が頭を押さえた。以前一緒に来てくれるよねと言って握られた手の温度、無性に腹立たしかったけれど、下げた頭を自分の膝で打った所だったので何も言えなかった。これからまた仕事に戻るらしい母親は銀八先生と校長室を出て行く。私はその後について校長室を出て、彼らとは逆方向、今は誰もいないであろう教室に向かった。荷物を整理しなければいけなかった。 私に許された時間は今日だけだった。卒業式前の大掃除にも出られないので、私物はこっそり持って帰って処分しなければならない。置いて帰って全て捨ててもらうのが一番楽だけれど、立つ鳥跡を濁さず、それに多分このクラスは大掃除が多事多難になるだろうから、出来るだけ自己処理することにした。手始めに机に眠ったままの教科書を出してみると、思いの外多い上に、失くしたと思っていた現国の教科書が奥深くでぐしゃぐしゃになっていた。 「おい、ちょ、それはねえだろ。先生泣きそうなんですけど。」 可哀想な教科書を手に振り返れば、いつの間に戻って来たのか銀八先生が涙目で立っている。思わず笑ってしまったら、銀八先生は少し目を伏せ、ぐすんと鼻を啜った。それから言った。「マジで卒業式出ねえんだな。」 「はい。」 「奴らに言わなくていいのか。」 「先生、このタイミングで言ったら微妙な空気になりますよ。おめでたい気持ちパアじゃないですか。」 銀八先生はがらんどうの教室で暫し立ち尽くしていたけども、やがて私の前の山崎君の席へ横向きに腰掛けた。私の席は丁度窓際の列なので、よく山崎君と授業中眼下の校庭を眺めひそひそ話をしながら、内職に励んだものである。未だ轟音の響く窓の外を見下ろすと、私の机に肘をついたまま首だけ後ろに回して、銀八先生もまた騒がしい彼らを眩しげに見つめた。その隙に手の内のぐしゃぐしゃな教科書をこっそり鞄に突っ込む。 明日の大掃除は風邪でもインフルエンザでも、とにかく何か理由をつけて欠席する予定だ。そして明後日の卒業式も。気を遣われるのは大嫌いだった。銀八先生はそれを知っていて、敢えて、皆の輪に混ざらず此処に居るんだろうと思う。このサドめ。 窓側に居る私達に目敏く気付いた土方君が見てねえで止めろと怒鳴っている。 「止めろって言われても……無理だろ。」 「確かに。」 「」 私達に気を取られていた所為か、爆発に巻き込まれた土方君に心の中で合掌して前に向き直る。日光を裂く銀色の髪は、教壇でふんぞり返ってジャンプを読んでいる時と全く同じだった。見納めの色を頭に焼きつける。銀八先生は何も言わない。 彼が担任になってからもう長いこと考えてきたが、いつ何時も銀八先生の言動の真意は読めた試しがなかった。授業中何気なく話した映画のストーリーを試験に出してきたり、突然のど自慢に出ようと言い出したり、その他諸々。他の先生方のように、大人になりかけている私達の深きに踏み入って返り討ちになるなんて真似は絶対にしなかったが、代わりに、必ず近くに居た。近くと言うよりはそれぞれ、全てのクラスメイトに対して適した距離を保っていた、と言う方が正しい。私が銀八先生について唯一理解できたのは、この人は、他人と距離の取り方が病的に上手いことだけだ。何も言ってはくれないが、必ず私達の言葉を待ってくれている人だ。 いつの間にか下がった視線の端に、自分が握った拳が入っている。両親に今回の話を聞かされたときでさえ、こんなに遣る瀬ない気持ちにはならなかった。 「あのね先生、ほんとは、」 「本当はね、」言い切る前に、今までより数段大きな爆発音が私の声を掻き消した。咄嗟に外を見ると、隕石でも落ちて来たのかと勘違いするくらいのクレーターが校庭のど真ん中に出来ている。皆は無事なようで、まだ何事か騒いでいる。丁度開いた窓の傍にいた銀八先生は暴風をモロに受けたらしく、トレードマークの天パはぼさぼさに乱れていた。 「」 やっぱり言わないでおこうと思った。誰の仕業か知らないけれど、自分にとって言葉を遮った校庭の騒ぎはきっと喜ばしいものだ。私はただ首を横に振った。 空港は人でごった返している。どこかはしゃいでいる母親と、久しぶりに会った父親の後ろについて行くのは容易ではなかった。が、今頃戦いの舞台になっているであろう大掃除中の教室よりはずっといい。もう面倒だから教室ごとごみも吹っ飛ばしてしまえ、なんて神楽ちゃん的思考は少なくともここでは生まれないだろう。去年の惨状を思い出し思わず身震いしたものの、今は安全は保障されている。その筈だった。 離発着を示す大きな電光掲示板に目を奪われながら歩いていた所為で、私は突然立ち止まった父親の背中に鼻を強打した。見上げると振り返った父親がにこりと笑って私の背後を指差す。「聞こえなかったのか?呼んでるぞ。」 背の高い父親と同じく振り返ると、その先には見慣れた白衣姿でなく、スーツ姿の銀八先生が居た。人の波をすり抜け、光る銀髪がどんどん近付いて来る。黒に近いスーツ、きちんと締められたネクタイ、靴は革靴。きっと、明日の卒業式の為だったのだろうと想像がついた。周囲の足音より高く響く銀八先生の靴音は、ある種カウントダウンのようである。 母親が私の背中を押す。押されて前に一歩だけ足が出たけれど、それきり動けない私の傍まで、銀八先生はゆっくりと歩いて来た。私ではなく両親にひとつ会釈して、少しだけ息を上げた銀八先生が私を見て笑う。無表情気味な銀八先生には珍しい表情だ。 「掃除は終わったんですか。」 何と言えばいいか解らなかった。私の口から出たのは、自分でも驚くほど冷静な言葉だった。 「待ってっから。」見当違いな答えを寄越した銀八先生が不意に手を伸ばし、私の頭を軽く叩いた。 待ってる?何を?いつだって銀八先生は私達を待っている。けれどそれは一教師としてであり、卒業生の私にまでは必要の無い行為だった。先生の元へ戻るという以前に、日本にすら帰って来ないであろう私にとっては尚更不要で、不適切な言葉だ。咄嗟に私は銀八先生の手を叩き落してしまう。 それでも、銀八先生は口角を引き上げたままだった。 「あの時言えなかったことが言えるようになったら、そん時は帰って来い。それまで待っててやるから。」 私は銀八先生を見上げるフリをして、空港の高い高い天井を見上げた。そうでもしないと、決壊寸前の涙はここが何処かも、後ろの両親のことも無視して流れてしまうだろう。眼鏡の奥で気怠げな目が少しだけ見開かれたのが歪む視界に映ったものの、銀八先生はそれについて一切触れずに、私の手に色紙を持たせた。掃除をサボって皆が書いてくれたのだと言う。道理で、掃除が終わったかという問いに答えなかった筈だ。 そうして銀八先生は両親と二言三言交わすと、もう一度、上を向いたままの不自然な姿勢でいる私の頭に手を置き、今度は勢い良く下向きに力を入れた。 「じゃあな。向こうでも頑張れや。」 耐えに耐えた涙がパンプスに落ちた。堰をきったように溢れる滴の所為で喋ることはおろか顔を上げることすらままならなくなった私がどうにかひとつ頷くと、銀八先生はぐしゃぐしゃと頭を数回撫でて、元の通り革靴を鳴らして戻って行く。その音から逃げるように振り返って母親に抱き着き、私は人目も憚らず大声で泣いた。狼狽した様子の母親の手がぎこちなく背を辿る。 本当は卒業式に出たかったのだ。皆と一緒に、ありがとうと言いたかった。本当は皆と一緒に、おめでとうと言ってもらいたかった。そして叶わない想いからもきれいさっぱり卒業するつもりだった。 泣きじゃくる私の手から色紙が滑り落ちた。卒業おめでとうなんて何処にも書いていない。ふざけんな、さっさと帰って来い、そんな叱咤が何より嬉しくて、私は母親から離れると涙も鼻水も垂れ流したまま落ちた寄せ書きの傍に膝をついた。裏まで文字が書かれた色紙を抱いて座り込んでしまった私を、両親もまたしゃがんで抱き寄せる。 伝えようとした想いも、未だ止まってくれない涙も、私が自分で一歩踏み出した何よりの証拠であり、そして銀八先生が与えてくれた大きな大きなきっかけだった。 先生、あの時爆音に掻き消された言葉の続きを私は二度と口にしない。けれど代わりに、いつか先生の言うその時が来たら、私は真っ先に貴方へありがとうを叫ぶだろう。 然様ならまたいつか 20100331 |