俺はさんのことを好いていた。 水仕事で荒れた白い手が気に入っていた。 裾から覗く華奢な踝が心配だった。 からかう度に困った様に小さく微笑む表情に満足した。 不心得を諭す優しい声色に少しばかりの罪悪感が芽生えた。 気紛れに荷物を持ってやれば目を細め告げられる礼が嬉しかった。 それはもしかしたら今は亡き姉上と重ね合わせていたのかもしれないが、唯一姉上と違ったのは時にさんが欲の対象になり得ることだった。 目を伏せ控え目に俯かれると思わず視線を外した。 他の男と談笑する様に相手を殺してやりたくなった。 髪の甘い菓子みたいな匂いに口を寄せたくなった。 袖から覗く手首に噛み付きたくなった。 偶の休みに外で会えば抜き衣紋の為に晒される首筋に堪らなくなった。 兎にも角にも俺はさんを好いていた。 だから崩れたこの人に俺は手を伸ばせない。 土下座する格好になったさんはまだ頭を上げず震えてくぐもった謝罪を響かせる。 俺は早々に助け起こすことを諦め、代わり動けないままの上司2人に向き直った。 真っ青になった土方があまりに面白くて口元が勝手に弧を描く。 「俺の処断はそれ見て決めて下せェ………おい山崎、さん連れて来い。」 「は、はい」 腰の抜けた風な彼女は立ち上がれないだろう。 元来た道をのろのろ戻る俺の後を、さんを支える山崎がこれまたのろのろとついて来た。 疲れ果てたこの人は限界だったらしい。 俺の部屋に戻った山崎を振り返ると小さな身体をいつの間にやら横抱きにしていて、どうしようもなく苛付いたがだらりと下げられた腕を見てそれもすぐ冷めていく。 取り敢えず寝かせてもいいかと遠慮がちに尋ねる山崎に頷いて、それから俺用に蒲団を改めて引っ張り出そうとするのを止めた。 「とにかく動かなきゃイイんだろィ? 大人しく座っといてやらァどうせ眠くねーし。」 「でも隊長、」 「これ以上バタバタしたら起きちまう。」 引き下がらないと理解したのか(山崎は監察だけに人の行動パターンを冷静によく読める)、何かあったらきちんと呼んでくれと念を押して障子を閉める。 部屋には俺とさんだけが残った。 呼吸が落ち着いてそれなりにつっかえず話せるようになったが今度はこの人が眠ってしまった。 言いたいことは山ほどあるというのにここでもタイミングが悪すぎる。 傍らに座って見下ろす顔は青白く、俺より先に彼女が逝ってしまうんじゃないかと思った。 隠す重荷がなくなった所為か、驚くほど静かな俺は俺を見ている。 多分今朝薬を飲んでいればこんなことにはならなかった。 そもそも薬の管理ぐらい自分ですればいいのだが、どうもこの手のことは面倒臭くて駄目だ。 けれど一方で、今朝飲んでいたとしたら今後もさんを苦しめただろうことも知っていた。 結局のところ病に侵された時点で悪足掻きせず諦めるべきだったのだ、そうすればせめてあんな酷い涙を見せなかったに違いない。 自分の手が涙の跡を辿る様をぼんやり見送ればさんが微かに身動ぎした。 「さん、俺ァどうも薄情でいけねぇや。」 自分の所為だと考える。 が、何故だかほんのすこし嬉しくもあった。 それは彼女が俺の為に泣いたという曖昧な行為の上に成り立つ自己満足であり、そんなことを言えばきっとまた悲しそうに諌められるだろう。 故に、ゆるゆる開かれた目を直視出来なかった。 「………隊長、?」 「俺はアンタが泣いて嬉しかったんでィ。」 ゆっくり身を起こし襟を整え、するりと散った後れ毛に目を奪われる俺にさんは案の定眉尻を下げ俯く。 が、返ってきたのは諌言ではなく柔らかい体温だった。 「沖田隊長、隊長の為に泣いてくれる笑ってくれる怒ってくれる人は、たくさん居るじゃあないですか。」 「、」 「御免なさい隊長、本当は私も嬉しかった。」 貴方がやっと刀を棄てて、私心配しなくてよくなる、って 頬に触れた手は温かい。 暖を取らなければならない時期がもうすぐそこに迫っていて、夜の肌寒さに冷えた自分の頬にとってその温度は沁みる。 亡くなる前、姉上の掌もこんな風に優しかったけれどこんな風に温かくはなかった。 足を蒲団から抜いて座し俺と向き合う彼女はそんなことを知る由もないので手を伸ばすのは憚られる、のだが 「今日は冷えますね」 年上の余裕かはたまた思考回路が特別なのか、あっけらかんと允許を口にしたさんはいつもこうやって俺を甘やかす。 そんなところまで似なくてもいいのにと普段なら反発する俺はこの時ばかりは素直に彼女を抱え込んだ。 亡き姉上の面影、好いた女への劣情、もう大人だという主張、そんなものを全てすっ飛ばして、抱き締めるというよりは縋り付くの方が正しい。 背中を撫ぜる手は途方もなく優しくて一瞬泣きそうになったものの、最後の最後で自尊心ともう1人の俺が引きとめた。 そんなのはただの貰い泣きに近い感情であって別に自分自身が泣きたいと望んでいる訳ではないからだ。 知ってか知らずかこの人は俺を赤子にするみたいにあやす、それがまた悔しくて俺は態としおらしい声を出す。 「どうなりやすかねィ……できればまだ、一緒に居てえなァ。」 「皆沖田隊長を手放したくないんですよ。 憎まれっ子は大概同じくらい可愛がられるんですから。」 「アンタも可愛がってくれるんで?」 「当たり前じゃないですか。」 障子の向こうで足音がする。 振り返れば大方近藤さんと土方がこっちに来たのだろう、山崎が何事か低く呟いた傍らに2人分の影が映っている。 「………そりゃあ残念だ、俺がさんを可愛がってやりてェのに。」 「あらら、そうだったんですか。」 「さん、さんは、刀がねぇ俺でも認めてくれやすかィ?」 この組織における俺の存在意義は隊を結束させるカリスマ性でも戦術を捻り出す知能でもなくただの殺人技術である。 それを失えば少なくとも真選組にとって俺は単なる未成年の餓鬼でしかない。 使い物にならないと知れば、それが邪魔だという意識か養生しろという希望かはさて置き俺は此処に居る意味を無くすのだ。 くすくす笑っていたさんは俺を弱く振り解くと、その皸の出来た指で俺の額を弾いた。 ぺちんと間抜けな音と一緒に発せられた、言うなと言ったのはその所為かという言葉の方が数段重たい衝撃を寄越す。 弱みを握られる感覚に慣れないからだろうなと他人事のように思いながら自分も苦笑いを零した。 再度引き寄せる身体は、確実に自分を抱き締める。 いつもと同じ甘いバニラの香りがした。 柑橘系の方が好きだと俺が文句を言ったときは、専ら甘党の自分の為だからこれがいいのだと主張していた気がする。 甘味屋にサボりがてら彼女と行ったのは最近だったが、もうサボりの口実にこの人を誘うことも出来ないらしい。 サボる前提としてある仕事は無くなるだろうから仕方がない。 「私は刀が好きで此処に居るんじゃありません。 近藤局長も土方副長も他の隊士の方だって皆そうに決まってます。」 「居て欲しいんでさァ。」 「皆さんはちゃんと傍に居ます。 これからだって変わらない。」 「そーじゃなくて、」 仲間の傍に居れば俺はきっと自己嫌悪に陥るだろう。 役に立てない歯痒さに腹を立てるだろう。 けれど刀と違ってこの場所はどうしても棄てられない、そして欲深い俺はそれとは別に損失を埋める特別な居場所が欲しいのだ。 アンタに、という女に、傍に居て欲しい。 そのかさついた手を掴んでおける処が欲しい。 さんは珍しくも肩を震わせ驚いたようだった。 触れ合っていた肩を離して顔を覗き込めば障子越しの月明かりでも判るくらいに頬を染め瞬きを忘れた瞳を俺に向けて、次の瞬間吃驚するほど綺麗に笑顔を作り上げるのに俺は息を呑んだ。 「可愛がってくれますか?」 「………勿論でさァ。」 先刻の涙で多少落ちた化粧も気にせず頬と唇に順番に口付けると、一瞬障子にかけられた手が止まるのが背後で判る。 流石は我が真選組が誇る監察方、敵情に行動パターンに、それだけでなく空気まで読めるらしいと変な所に感心しつつ俺は今朝突き飛ばした身体に回す腕の力を強めた。 変わり身の早い奴らだと思われただろうと意地の悪い言い方をしても、寝かしつけるようにに背中を軽く叩く手は止まらない。 「じゃあ私が土方副長に叱られる時は一緒に怒られて下さいね。」 ああこの人には一生かかっても敵うまい。 と、俺も外に意識を遣るもう1人の俺も白旗を掲げた。 他己
(俺であり俺ではない) 20091219 |