「こんな餓鬼まで遣うのか高杉は。」




嘲笑というよりは憐れんでいるような笑みを口許に浮かべて、かの真選組副長は這い蹲った自分を見下ろした。 副長と入れ違いに出て行った何人かも同じような微妙な視線を向けていた気がして少しばかり奇妙な心地がする。 彼らの価値観で測れば私の年代性別で尋問もとい拷問されるなんて考えられないのだろうなあと見上げると、それなりの美貌の男がその端正な眉を顰めた。

後ろ手で縛られたまま転がる彼女の傍に土方はしゃがみ込んで、銜えていた煙草を揉み消す。


光の届かない一室にぶち込まれているから日が判らないが、そろそろこの行為もエスカレートするとは踏んでいる。 女でありまして彼らにとって子供だと認識されているからこそ頬を張られる程度で済んできたが一般人と隊士を10人程手に掛けているし、彼女の主君は先日大規模なテロを起こして真選組と対峙した分次のテロを危惧して焦るだろう。
それは事実だったけれど勿論土方は表情にも態度にも表さず、だからこそは内心ほくそ笑む。 余裕を見せる黒髪の男が、隠し事ならまだしも嘘を吐くのが大層下手であると感じ取ったからだ。 憧憬と焦燥は最も隙を生む感情で、その下では常に相手より上位にいなければならない拷問は成り立たない。 だったら尚更何をされようとも耐えられる、彼女はそう確信して水浸しの地面に頬を落とし目を閉じた。
そして、最早崇拝に近い感情を抱える想い人の言葉を反芻する。


“生きて帰れ。”


お前は見込みがあるからと、愉しそうに笑い子供にするように絡まった髪へ櫛を通してくれるあの人を思えば。



「寝るんじゃねぇよ、餓鬼。」



幼少の頃既に生産性のない暴力に耐えることを覚えていたこの身体でも、あの人が利用価値のあるものだと見做してくれるのなら。



「これからだ。」



何をされようとも耐えられる。









飲まされた薬品に意識を混濁させているにも拘らず、ゆっくりゆっくり爪を剥がされる激痛は確実にの頭を貫いた。 2日で両手の爪は剥がし切ってしまった、それでも何ひとつ喋らないばかりか叫び声すら上げず、只管に歯を食いしばるに土方は眉間に皺を深く刻む。 その様を遠巻きに他の隊士が見詰めて同じように顔を顰めた。 痛いだろうと、吐けば楽になれると、一気に浮かんだ冷汗が伝う頬のすぐ傍で押し殺した声で囁く男をは横目で見る。

映った黒髪が敬愛する主君に似ていて、彼女はそっと微笑んだ。 彼の人を構成する要素のひとつではあったがやはり向こうの方が綺麗だと思いを馳せれば、無造作に跳ねた髪が頬を擽る。


拷問とは言えない(にとって、だが)中途半端な暴力行為は何処かに残る罪悪感が、自分を女子供と認識させるからだとは知っていた。 だからこそ、土方はこうして息がかかる程近付いたのだ。 長物を腰に携えたまま、縛っていた手を深く考えもせぬまま解いたのだ。 無抵抗だと高を括りあわよくばこれ以上傷付けるのが我慢ならず、さっさと情報を吐いてくれという懇願すら気付かぬ内に持っているだなんて、対テロ組織のトップがそんなに甘くて大丈夫なのだろうかと、見当違いな方向に思考を巡らせた彼女はつい、と視線を下げ、無防備に晒された喉元にスカーフごと咬み付いた。



「ッ、てめ!」



咄嗟に飛び退いた土方はしかし一歩遅く、食い込んだ一歯が柔らかな首の皮膚を引き裂きスカーフを地面に落とす。 勢いよく突き飛ばされたは強かに壁に背を打ちつけて、口端から顎まで伝う血液を倒れたまま肩口で拭う。 彼女を睨み付けた土方がその様を見て自分の首筋に手をやった。



「敵方に、そんな無防備に躯を寄せてくるものじゃないですよ。」



窮鼠猫を噛むって言うのに


静かに落とされた声に殺気立ったのは土方ではなく後ろで見ていた部下だ。 それを片手で制し部屋から追い出すと、土方は再度を引き起こす。 今し方痛い目に遭ったというのに莫迦な男だと、けれど彼女が警戒したのをイイことに彼は淡々と言葉を紡ぐ。



「窮鼠、ねぇ………」

「?」

「知らない男に触られんのがそんなに気に食わねぇか。」



にたり歪な笑みを刷いた唇がお前はどこの可愛らしい女だと吐き棄て、先刻がしたように思い切り喉元へ食らい付いた。



逃げようと思えば逃げ出せる、この状況からだってこの部屋からだって。 あらかた情報は手に入れた、隊士の戦力、屋敷の構造、バックにつく官僚、武器の保有数、隊の編成その他諸々。 事実、後ろ手に縛られていようがこの部屋に錠があろうが、自分で縄は抜けたし部屋から出られた。 今は多少ふらふらしているけれど。
彼女が大人しく捕らえられていたのは最早己の意思だ。


きつい煙草の匂いだって似ても似つかない、安物の紙巻きだと判るとそれだけであの刻み煙草が無性に懐かしい。 は皮膚を裂いた土方の真っ赤な下唇に舌が這うのをボンヤリ見据え、じっと見下ろす物騒な視線を躱した。



「あの男を好いていようがいまいが俺ァどうでもいいが、下らねぇモンの為に無関係の人間を殺す手管は頂けねェ。」

「………。」

「何を刷り込まれたんだか知らんが目ェ覚ませや。」



思いの外深かったらしい、目の前の男が喋るたび引き攣れ血が流れる首の裂傷を見詰めながら、はたった今完全に立場が逆転したことを感じ取った。 子供、女、しかし仮にも捕虜に諭してやる程余裕がある筈がないのに、これはもう覆しようのない人柄なのだろうなと、は憐れに思う。



「ねぇ、私、幾つだと思います?」



自分がこうなったのも幕府の所為だと、そんなどうでもいい事柄を騒ぎ立てるつもりは更々なかった。
怪訝そうに眉を寄せた男は何ひとつ関係ない。 屠った人間もそれはまた然り。 は霞がかった頭のまま、黒い髪をもう一度見上げ少しばかり支離滅裂に言葉を囁く。



「貴方と同じ位なんですよ、きっと。 成長出来なかったから分からないだけで。」

「………」

「奪ったのは貴方じゃないけど助けてくれたのも貴方じゃあない。」

「お前、」

「泥水啜って溝鼠まで漁って下水管で眠った時間をあの方は返してくれた。 私、一生忘れない。」



顔には出ていないがあからさまに強張った襟を掴む手を可哀想に思いながら、は土方に再度咬み付こうとした。 流石に今度は急所を捉えられる前に土方は条件反射で後ろに飛び退き、その拍子に彼女が密かに手を掛けていた刀が鞘から抜かれる。 しまったと彼が目を瞠った瞬間、ひゅんと空気を裂く音と共にゆらゆら揺れながらが立ち上がる。


だから言ったのだ。

無防備に躯を寄せるものじゃないと。

















物憂げに紫煙を燻らせる高杉の声に少しの不満が滲む、たったそれだけがあの暗い部屋で受けた拷問紛いの行為より数段恐ろしく更には痛みを伴って、をどん底に叩き落とす。 勿論高杉が彼女の心情を知ることなどない、そのまま平伏するに視線すら放らず彼は音もなく立ち上がった。


はこと高杉に関して洞察力が働かなかった。 突き詰めれば絶対的な存在と認める高杉に疑心を持つことは許されない。 そんな盲信も高杉にとって操り易いのだろうと、理解こそしていたが一向に構わなかった。 死ねと言われれば舌を噛み切れる程に崇拝する主君が抱える己への負の感情はだからこそ、が最も苦痛を味わう要素だった。

そうして食われんばかりの脅威に爪のない指先が小刻みに震え、畳の目を徒に引っ掻き遊ぶ様子に足を止めた高杉はふと、目元を綻ばせる。 幼少の頃より虐げられてきたを掬い上げたその手を伸ばし、乱れた髪を掴んで勢いよく上げさせた顔の下、首に残る傷を認めると遂に笑みが零れた。



「先に湯浴びてこいや。 報告はそれからでいい。」

「……はい。」

「人のこたァ言えた義理じゃねぇが、俺ァその匂いは好かねェ。」

「す、すみませ」

「犬に咬まれたんなら、当然引っ掻き返すぐれェしてきたんだろうな。」



不意に、口の中に残る血の味と苦いだけの煙草の匂いを思い出す。 自分の歯が肉を裂いたあの首は、一応まだ胴体と繋がっている。 真選組の鬼副長、栄養失調、薬物による意識混濁、いくら相手に得物が無くともの力では逃げ出すのが精一杯だった。

“何を刷り込まれたんだか知らんが目ェ覚ませや。”

ああ、今、私は覚醒しているのだろうか。 まだ、薬が残っているのだろうか。



「咬み付いてやりました」



満足そうに喉の奥で嗤う高杉が、の僅かな揺れを感じ取る。 ある意味無知で無垢な彼女に染み付いた知らぬ煙草の匂いより、ずっと神経を逆撫でするその小さな揺れを掻き消すように、反らせた喉元を飾る赤黒い痂皮を舌で剥ぎ取った。



「次は咬まれんなよ。 万が一にも要らねぇ病気貰って来られちゃ困るぜェ、。」












窮鼠犬を咬む








20090811