これこそが欲望である。これこそが、生きる糧だ。
 所詮集合体の世界であるなら、自己が自己たる為に、己の存在を他に知らしめねばならないのだ。


 轟轟と燃える城から見下ろせば、なんとまあ外の暗いことか。騎馬隊が遠ざかり、歩兵が逃げ惑うその姿が、月明かりに照らされ漸く見える。
 最早我が身も終いだというのに、ひとつも悲しくはなかった。最期まで威厳を守った父と、落城にも怯えず死を選んだ家臣の躯が転がる光景は寂しかったけれど、それだけだ。この世に執着するものは何もない。焼け死ぬか、暗闇に身を投げるか。これに関しては少しばかり迷ったが、無様な死に様を晒すのは御免だった。灰も残さず焼かれてやる。

 目を瞠り、畳に爪を立てたまま、凄まじい形相で死んだ父親の傍らには膝をつく。普段から人が良く穏やかなその人は、皮肉にも一番近くに置いた忠臣に裏切られた。博識で優しい父親を彼女は敬愛していたものの、唯一理解できなかったのは、こうして人の全てを信用し抱え込む性分だけだった。父親としては理想だが、当主には向いていない。口元にこびり付いた血液を拭い、固まった瞼を下ろしてやりながら、は心の内で父を憐れんだ。逃がした筈の娘とあの世で再会、なんて、父親があまり好かない筋書きだろう。


 さて、あとどれくらいで崩れるか。
 そんなことを呑気に予測しながら、再び外の暗闇に視線を移したはふと、自分の背後にいつもの忍が控えているのに気付いた。いつもの、とは言ったが、が彼の姿を見るのはこれで3度目である。ただ年が近いというだけで父親が自分に付けた若いと思しき忍は、その装束をあちこち血に染めてはいたけれど、片膝をつき頭を垂れて、微動だにしない。
 城が落ちた今、ただの雇われの身が此処へ戻る意味も無くなっただろうに。は不思議に思いながら、父の首でも取りに来たかと冗談を声に乗せた。丁度天井板の一部が崩れたために掻き消された声を、忍は律儀に拾って彼女に答える。お供いたします     



「今や主君はこの通り躯、忠誠は無意味ぞ。」
「いいえ、私めの主君は姫様のみで御座います。」
「まさか。」



 思わずはくすくすと笑みを零す。それから漸く彼にきちんと向き直ると、少し乱れた結い髪を見つめ、そっと息を吐いた。

 姿は見えないし気配も感じなかったが、彼は戦の時を除いて始終自分についているのだと聞いた。が忍の存在を思い出すのは、いつの間にか部屋に覚えのない花が活けられていた時と、夜中、閉めた障子の向こうからくぐもった一瞬の呻きと共に血臭が流れ込んでくる時だけである。他にも生来身体の弱いは何度か彼によって救われていたものの、発作を起こせば大抵記憶が曖昧で処置を施した彼のことなど覚えていない。だからという訳ではないが、こんな時にまで張り付かれるのは有難迷惑でしかなかった。己は単なる庇護対象で、金を払って自分の御守を依頼した主君は、床に倒れる父親なのだから。


「ならばもう御役御免じゃ。何処へでも好きへ行くがよい。」


 忍は姿勢を崩さず、また返事もしない。そんな反抗がにとって何とも珍しく、彼女は不意に立ち上がり忍との距離を詰めた。文字通り膝をつき合わせる位の位置にが座しても、彼は反応しなかった。再び壁が燃え落ち、すぐ後ろに火が回ったというのに、じっと動かない。あまりに静かだから、は徒に夜の者らしい白い頬へ手を伸ばす。部屋にひっそり置かれる、あの小さな青白い花と同じ程に色の無い忍。その肌に指が触れるか触れないかの所で、低く押し殺した声がの手を止めた。「姫様、汚れてしまいます。」

 抑揚を欠いた声にまた笑いが込み上げる。今更だった。


「そなた、大川殿の学園の出であろう。」


 父親は自分達の代わり全て泥を被ることになる忍をあまり好まなかった。しかしその割には忍を育てる学園と親交が深く、時々遠いこの城まで学園の遣いが来ていたのをは覚えている。体調が良い時に一度だけ、学園長とも顔を合わせた。その時後ろに控えていた数人の生徒は皆、快活に笑いひどく輝いて見えたものだ。忍のくせに、滲み出る情がとても心地良かった。何処か父親に似ていたのかもしれない。だから忍を嫌う父親が、あの老人を尊敬に値すると称したのだろうと、今ではよく解る。
 そしての言葉にほんの少し身を震わせた忍もまた、隠し切れない甘さが僅かながら漏れているのだ。


「頭を上げてはくれぬか。」
「………は、」


 煙に覆われ始めたこの部屋で、言われた通り顔を上げた彼の眸が真っ直ぐにを射抜く。微かに血に染まった口布の為に表情は解らなかったが、よくよく観察すると呼吸が浅い。滲む汗はこの部屋の熱気の為か、はたまた冷汗なのか。忍装束の血は他者のそれだけでなく、きっと、自分のものでもあるのだろう。

 そうまで苦しいのに何故戻って来たのか。何を望んで此処に来たのか。
は最期まで矜持を崩すつもりはなかった。この忍がもし憐れみ同情を向けているのなら、たった今懐刀で自害してもよかった。


「名は何と申す。」
「留三郎と。」
「年は。」
「十九に御座います。」
「顔を見たい。」


 彼女より2つほど年上の忍は少しの逡巡の後、黙って口布を下げる。無表情の彼にはそっと息を吐き出して、ぽつりと呟いた。「強欲な忍の顔じゃな。」

 人知れず死に逝く。忍の運命だ。彼らに安寧の死などない。
 それなのにこの忍は死処が欲しいらしい。


「そなたが妾のものだと言うなら任を与えよう。今すぐ此処から離れるが良い。」


 細い眉が跳ね上がり、切れ長の眸が細められる。人形の如く何の表情も浮かべなかった忍、それが顔を歪めるのは見ていて楽しい。は唇の端を引いて微笑んだ。それにつられこめかみから伝う汗が口に流れていく。
 彼はそれを見つめながら、表情とは裏腹に無機質な声を彼女に放った。


「そうでないなら、」
「そなたが留まる意味は何一つない。今すぐ此処から離れるが良い。」


 熱を持った畳が軋み始めた。この分だと下から崩れるのが先だろうか、そんな思考に意識を奪われたは故に、突然ぐらり傾いた忍に反応できなかった。ただ、畳に頬が打ち付けられるその瞬間まで、まるで自分を射殺さんとばかり鋭い視線をくれる彼が、とてつもなく可哀想になったのは事実である。悲しい忍の性か、苦痛を抑え込むのに慣れているのだろう、意識を失うことが出来ずそれでも自分を見上げる彼が、可哀想でならなかった。

“お前は利口だ、きっと1人でも生きていける。行け!”

 1人で死ねても、独りで生きてはいけない。命と未来を天秤にかけるまでもなく、父親に何を言われようと、最初からの選ぶ道は決まっていた。長い間病に苦しめられ、しかし父親や周囲の為にかろうじて生きてきた彼女にとって、これ以上の悪足掻きは不要だった。


 それなのに、とは彼に手を伸ばした。それなのに、まだ傍に他人が居る。独りで死ぬことすらままならない。最期まで己が役立たずどころか、諸悪の根源のような気さえする。それが悔しくて仕方がなかった。傷だらけの身体に鞭打ち戻って、共に死を選ぶと言わせてしまう己が腹立たしい。悔しくて遣る瀬なくて、だから、伏した忍が酷く可哀想に思えたのだ。
 下にした傷が痛むのか、ひっきりなしに短く息を吐き続ける彼が何か言いたげに頭を起こした隙に、の手は重たい身体を仰向けにしてその頭を自分の膝に乗せてやった。忍は暫くそのまま右の脇腹を押さえ目を閉じていたが、やがて深く息を吐くと再び口を開く。先刻より喜色の混じった、色のある声だった。


「そうやって、私まで救おうとする。姫様は、優し過ぎます。」
「もう、喋るな。」


 忍は呻きながら身を起こす。そして傷を押さえていた手を不意に懐に入れ、そこから真っ赤に濡れた花をの目の前に掲げた。ついさっきまで戦に出ていた忍の懐にあった上に、時間が経っているのか萎びて無残な姿になったその花、彼女は知っていた。時々気紛れに、部屋の片隅に活けられる花だ。本来は淡い青色の花弁をもつ控え目で小さな花で、もその薄青を気に入っているのだけれど、差し出された赤い花は今までのどの花より鮮やかな色だ。
 目が眩む。息を呑んだに追い打ちをかけるように、彼は、頭を垂れて溜息混じりに囁いた。「申し訳ありません、姫様」



「卑しい忍が貴女様をお慕いすること、どうかお許し下さい。」



 耐えられなかった。






 2人のいるすぐそこまで火の手が迫り、それに伴い天井から火の粉や焦げた木が降ってくる。その中で、彼女は彼をそのか細い腕に閉じ込めるように掻き抱いた。広い背に回り切らない腕に力を込めて、目を瞠り放心する忍の頭を己の肩に押し付けて、ただ1人で涙を零す。震える身体に気付き狼狽する忍を動くなと諌め、炎の向こう、暗い夜を睨みつけながらは泣いた。


「姫、様」
「この花の名を知っておるか。」


 が纏う着物にまで火が追いつき、質素なそれが黒く焼け始めた。上が落ちるのが先だったか、今にも壊れそうな一番太い梁を見上げて、彼女は彼を袖で覆うように隠す。その右手に血塗れの花を握り締め、が忍に花の名を告げたと同時、遂に轟音と共に焼け崩れた梁が2人を一瞬で呑み込んだ。


 忘れはしない。死んでも忘れぬ。来世でもお前を覚えていようぞ、留三郎       











勿忘草



(私を忘れないで)






20100111