kissi me,love me,kill me,







 何をどこで間違ったのか、世が憧れるヒーローは私を好きだと言う。ヒーローの恋が駄目と言いたいのではなく、対象が私であることが間違いなのだ。完璧主義者である彼の唯一の、取り返しのつかない過ちだと私は思っている。想いを拒み退け続けて半年ほど、しかし未だ涼しげに愛を囁く彼に家が知れてそのままなし崩しに、というか無理矢理に半同棲が始まった今もまだ、私の後悔は晴れていない。
 だから、今日も今日とて私は叫んだ。「ジュニア!」


 子供の頃から触れるのが苦手だった。自分の特異体質に気付いてからというもの、滅多なことでは他人に触れることができない。逆に、触れられるのも無理だ。無意識下、もっと言えば驚いたり恐怖や怒りを感じたり、そういう感情の起伏に反応して私の身体は触れるもの全てを分解しようとするらしい。有機物無機物関係無しに、そりゃあ一瞬で何もかも無に帰す訳ではないけれど、それでも制御を間違うと例えば握ったグラスは粉々である。ヒトも例外ではない。つまり、突然後ろから抱き締めるなんてされたら相手が危ないのだ。
 咄嗟に思い切り振り払った細腕の主を振り返ると、唇を赤く濡らしたバーナビーが悪びれもせず諸手を上げた。どうやら首筋に落ちた感触はキスだったようである。思わず顔を歪めた私に、彼は裂けた唇を舌でなぞってからあっけらかんと、ただいま、と言った。



「びっくりさせないでって何度言えばわかるんですか!」



 まるで子供を叱る母親のようだと思う。が、子供の方は反省の色などさっぱりない。



「驚かなければいい。」
「いや貴方に気配消して近付かれたら私気付けない……それにこれも何度も言いますけど、」
「僕にとっちゃ貴女に近付けない方が嫌ですけどね。」



 バーナビーは僅かに微笑み、シャワーを浴びてくるとバスルームに足を向けた。
 飽きる程繰り返したやり取りなのだが、それでも彼は事あるごとに私に触れた。こうして虚を突いて手を伸ばしてくることも多く、その度バーナビーは傷ついている。私はそれが酷く恐ろしいのだ。彼の想いを受け入れるつもりはないけれど、彼のことを嫌悪しているのでもない。寧ろ愛しいと思っている。

 だからこそ彼は私から一番に遠い位置に居てもらいたい。初めて人を殺めたあの日から、私は必要以上に他人と距離を詰めるのをやめたのだ。






 犠牲者は兄だった。何が原因だったかは思い出せないが、14歳のクリスマス直前だったことは覚えている。驚いたでも怒ったでもなくただ、兄に差し出された手を取った次の瞬間、彼は全身血塗れで倒れていた。絨毯に仰向けで横たわった兄に最初こそ悲鳴を上げた両親だったが、後に2人は私の能力を称賛し、そして兄の死をなかったことにした。どんな手を使ったのか知れないけれど、最終的に兄は得体の知れない感染症で病死したことになっている。お前なら素晴らしいヒーローになれる、そう言われるがままシュテルンビルドに引っ越しアカデミーに入学したはいいが、ヒーローの威光より兄を殺した罪悪の方をずっと大きく感じる私は結局1年も経たぬ内に辞めてしまった。元々内向的な性格らしい自分には余計に向いていなかったのだろう。バーナビーはそこで出会った先輩の1人だ。
 ジェイクの一件でバーナビーの過去を知った私であるが、一方で彼は私の過去を知らない。己とは対称的に、家族を手にかけた加害者である私を知れば、バーナビーはきっと私を憎む。ヒーローとて所詮は人間なのだ。そして私はそれが恐ろしく、故に尚更近付けない。

 手元の鍋をぐるぐるかき回しぼんやりスープの渦を眺めていた私は、不意にキッチンの入口から届いた声に振り返った。バーナビーが不機嫌な面持ちで腕を組み左の壁に凭れかかっている。どうやら何度か呼ばれたものの、気付かなかったようだ。



「ああ、ごめんなさい。どうしたんですか?」
「それはこっちの台詞です。貴女こそ、最近いつも考え込んでいるでしょう。」



 「あの人に会ってからずっとそうだ。」例のバディを思いだしているのだろう、苦虫を噛み潰したように顔を歪めるヒーローはそれでも見目麗しい。正直な感想なのだが、それを口にするとバーナビーは一層眉間に皺を寄せ、誤魔化すなと私を睨んだ。



「別に虎徹さんに会ったからどうって訳では、」
「それ相応の覚悟と根回しがないなら、僕に嘘を吐かない方が身の為ですよ。」



 先刻切れた唇が真一文字に結ばれているのを見て、私はそっとコンロの火を消す。首だけ振り返っていたのを元に戻し、またスープを混ぜた。砕けたトマトが作る鮮やかな円を見下ろしていると、彼のパートナーを思い出す。
 ただ少し、過去を知る人であるだけだ。彼は私について色々と調べたらしく、兄の死の真相も知っていた。何だか息子の交際相手を調査する過保護な母親のようだが、まあそれはともかく、独自の情報網で私のことを調べ上げた虎徹さんは私に言った。お前はアイツの信頼を踏み躙るのか、と。



“お前を責めるつもりはねえし、お前達の為だと俺は思うから言うが、隠せば隠すほどアイツを傷つけるぞ。”
“……、”
“いつまでも誤魔化せるとは思ってないだろ?、お前は俺と違って利口だから。”



 カップに口をつけ、彼はじっと私を見つめる。バーナビーをしてお節介と言わしめた虎徹さんは、咄嗟に顔を伏せようとした私の名前を呼んだ。咎めもせず困ったように笑うので、不意に泣きそうになってしまう。



“バーナビーを信じてやればいい。他ならぬお前が惚れた男だ。”



 だったら何だと言うんだ。











 強い口調でバーナビーが名前を呼ぶ。ゆっくり横から伸びた手に右手を掴まれ、鍋には静寂が戻った。



「ジュニア、本当に虎徹さんには何の関係もないですよ。だからそう怒らないで。」
「では貴女を許すその権利を、僕に譲ってはくれませんか。」



 見上げた彼は最近虎徹さんに似てきたかもしれない。あの日虎徹さんが浮かべたのと同じ悲しげな笑顔を浮かべ、バーナビーはもう一度私の名を呼んだ。

 そろそろ潮時だとわかっていた。虎徹さんが知るならば、どんな形であれバーナビーにもその内知れるだろう。ただし、私は虎徹さんが言うような利口な女ではない。いつまでも誤魔化せるとは思っていないけれど、だからと言って正直に告げることもできない、卑怯で馬鹿な女だ。
 バーナビーが握っていた私の手をそっと放す。彼は温かい手をしていた。 



「貴女に謝ることがひとつあります。」
「……はい。」
「僕はあの人がにお節介を焼くずっと前から、貴女の兄のことを知っていました。」



 そうか、だから。
 だからこの人は。



「そう、ですか。」
「……貴女を傷付けるつもりはなかった。」



 違う。彼を傷付けるのはいつだって私の方だ。今も変わらない。私はいつの間にか半歩後ろに退いていたのに気が付いたが、何とか言葉を考える。何を言えば、何と言えば、しかしふと伸ばされた腕をいつものように叩き落した瞬間、自分でも驚くほどの大声で私は叫んだ。「ならどうして私に近付いたの!?」



、」
「離れていれば貴方は傷付かずに済んだ!何も知らなければ貴方幸せだったのに、どうして私に関わろうとするの!」
!」
「……貴方の両親を殺した殺人鬼と私は同じ、憎むべき悪でしょう。」
「それ以上言うと僕だって怒りますよ、。」
「好きにすればいい。そのまま私も殺してしまえばいい!」



     ガシャン!



 突然の破裂音に肩を震わせその方向を見ると、バーナビーが拳を握り鍋を殴った所だった。長い前髪に隠れ表情は窺えない。さっきまで散々かき混ぜたスープがあちこちに飛び散り、キッチンの床を濡らしている。まるで血のような色に後ずさった私を、バーナビーは勢い良く引き寄せ抱き締めた。

 本当は触れて欲しい。知って欲しい。許して欲しい。しかし何ひとつ叶えてはならない望みだった。私の幸せはあの日残らず兄に与えてしまった。だからバーナビーに与えられるものは何もない。


 わかっているのに。




「ごめんなさい、。」
「っ、」
「貴女を愛してるんです。貴女が僕を見る度兄を思い出して、どうしようもなく胸を痛めているのを知っても、」
「やめ、」
「離してやれない……!」




 声が酷く震えている。ヒーローが泣いているのだ、そう気付いて拒絶の言葉を吐きかけた舌の根が凍りついた。普段滅多に言えない謝罪の言葉を何度も紡ぎながら、彼は床のスープの海に涙を零し続ける。
 


「僕では足りませんか?」
「……。」
「僕では、兄の重さを肩代わりすることさえ許されませんか?」
「……。」
「もしそうならもう何も言わないから、せめて、せめて僕の我が儘を叶えて下さい。」



 きつく締められていた腕が緩み、彼は私の頬に掌を滑らせる。我らがヒーローは、名前の如くウサギのような真っ赤な目をして囁いた。



「貴女に触れさせて。貴女の全てを教えて。僕でなければ駄目だと言って。」









 この世でどれほどの女性が彼に愛を注ぎ愛を返されたいと思うのか。美しい翠眸に見つめられ、温かな手を握り、薄い唇に自分のそれを合わせることを、何人の女性が望むのか。白いシーツに埋もれる私がそんな思考に明後日の方向を向いていれば、今まで熱心に首筋にキスをしていた彼は不満げに私を覗き込んだ。余裕ですか、そう問うバーナビーの目はまだ少し赤い。きっとそれをからかえば、プライドの高い彼は拗ねてしまうだろう。
 墓標すらない兄の死を、私はこれからもひとりで抱える。所詮エゴだと言われても、これは私が私に科した罰だ。彼にも誰にも、この重さを肩代わりさせるつもりはない。しかし、ヒーローにあるまじき我が儘を叶えろと強請るバーナビーに、私は迷う。それを叶えてしまえば、私まで幸せになりかねない。彼には今までの分まで幸せになって欲しいのに、もっと他に望みはないのか。
 不機嫌な彼に苦笑いを返し、片手を持ち上げ赤い目元を親指でそっとなぞる。みるみる内に見開かれる瞳に思わず手を引きかけたが、それより早くバーナビーが私の手を掴んで子供のように頬を擦り寄せた。



「やっと手を伸ばしてくれた。」



 ああそれだけで、貴方はこんなにも嬉しそうな顔をするのだ。



「あの、……もっと他に望みはないんですか?私に関する以外で。」
「何故?」
「貴方の我が儘は私にとって我が儘じゃないからです。」



 正直に告げた言葉に彼は暫し目をぱちくりさせていたが、ふと微笑むと握っていた私の手を枕に押し付けた。言っておくが、私は今まで男性とここまで親密な関係になったことがない。自身の特殊能力の所為だけではもちろんないけれど、男性どころか女性だってここまで近くに感じることは少ない。だから、バーナビーに突然唇を塞がれへろへろになるまで舌を吸われたら堪ったものではなかった。赤く染まったであろう頬の熱と呼吸の解放を、背中を叩き訴えること3度目。漸く彼は唇を離してバーナビーはにこりと笑い、すみませんあまりに可愛らしかったので、と言い訳にならないことを言った。



「僕は貴女を幸せにはしません。」
「はあ、まあそうでしょうね。」
「最後まで聞いて下さい。僕は貴女を幸せにはしませんが、僕の我が儘はひとつ残らず叶えてもらいますよ。」
「いやだから、」



 それだと私まで満たされてしまいそうだ、そう言い切る前にバーナビーは二の句を継いだ。「じゃあ手始めに、ジュニアではなく名前で呼んで下さい。」



 完敗である。










kill me when the world ends.








20110731