この世は理不尽なことばっかりだ。今日も今日とて先日部下がやらかしたミスの尻拭いをして帰宅は午前様である。というか、この5日間家に帰れず今日が久しぶりの我が家ってどういうこと……仮にも私、花も恥じらう二十代なのに。手にはコンビニ弁当、そして膨大な書類にパソコン。取引先に頭を下げ、更にデスクワークで下を向き続け、首が上がらなくなってしまっている。だというのに件の部下は他部署の役員と宴会三昧らしい。死ね。いや、でも彼の人と付き合いの良さのおかげで、今回のミスもだいぶ大目に見てもらえたのだから仕方ないのだろう。下手すれば彼どころか私の首まで飛びかねない事態だった。うおおでも腹立つ!ヘラヘラするんじゃないせめて誠意を見せろてめえ……! 勿論そんな心中を口に出す元気もなく、自分の爪先を見つめながら摺り足気味に歩く。黒いパンプスが砂利を蹴る音を聞きながら、私はふとついこの前ノボリに説教されたことを思い出した。 “仮にも女性なのですから遅くなるようなら連絡を下さいまし。私がお迎えに上がります。” まあそりゃあの無表情で2時間小言を言われれば否が応でも思い出すよね。 なんとなくうんざりしつつ、けれどもう今更である。街灯がなく人通りも人家も滅多にないこの道を夜中の2時に通るのは家まで最短だからだ。もうすぐアパートに帰りつくし、この時間なら彼は寝ているだろう。9時出勤5時帰宅の公務員ではあるものの、サブウェイマスターの朝は早い。クソ真面目な兄の方だけなのかもしれないが。そんなノボリの安眠妨害をしてまで迎えに来てもらうのは気が進まない。 私が彼と出会ったのはやはり地下鉄だった。その日も確か夜遅く、仕事帰りに酔っ払い3人に絡まれたのだが、それを偶然通りかかったノボリに助けてもらった……という話では全くなく、逆にその酔っ払い達をぶん殴って昏倒させた私が彼を含めた駅員とジュンサーさんに事情を聞かれた、という何とも笑えない話である。 「どうして殴ってしまったのですか?」 「えっ何この私が悪いみたいな流れ。」 「そのようなことは。ですが貴女様は女性なのですから、非常に危ないでしょう。」 丁度重役相手のプレゼンが明日に控え、しかしここで時間をロスしていることに私は苛々していたのだ。じゃあさっさとあんたらが助けてくれたらよかったのに、そう言ったらノボリの後ろの若い可愛らしい駅員が密かに泣き出した。元々彼は酔っ払いを止めてくれようとしていたのだが、如何せん性質の悪い酔っ払いを外に放り出すだけの度胸も経験もなかったのだろう。ターゲットを私から彼に変更した酔っ払いに仕方なく、私は鉄拳を食らわせてやった。それなのに何だこの流れ。耐えきれず私は勢い良く立ち上がって駅員室の扉を開けると、茫然とする一同にこう言った。「二度と地下鉄なんか乗るか!」 要はヒステリーである。 昔からどうも、私は要領良く世間を渡れない。それはこの短気な性格もあるだろうし、生まれついた間の悪さもあるかもしれない。人付き合いは苦手だった。加えて二度と来ないと言ってしまった手前、私は駅員室に置き去りにした鞄やジャケットを取りに行けなかったのだ。幸いプレゼンのデータや資料は写しがあったのでいいが、困ったことに財布や電話もステーションである。プレゼンを終えて帰宅し、いつ取りに行こうかうだうだ考えていた時、滅多に鳴らないインターホンが鳴った。 「夜分遅く、連絡も無しに申し訳ございません。お忘れ物をお届けに参りました。」 あの場に忘れた鞄とジャケット。おずおず受け取り気まずいながらお礼を言えば、彼は無言で首を振る。そこから暫く双方黙ってしまって何とも言えない空間ができたが、先に沈黙を破ったのはノボリの方だった。 「昨日は私共の不手際の為に大変不愉快な思いをさせて誠に申し訳ございませんでした。私の部下を……その、助けて下さったとはつゆ知らず、ご無礼をお許し下さいまし。」 「えええ、いや無礼も何もされてないっていうか、むしろ私が無礼でしたすみません。」 「いえ、乗客の方々をお守りすることも私達の役目。それを果たせなかったのですから、貴女様があのようにおっしゃるのも無理のないことにございます。」 本当はあの若い駅員もつれてくるつもりだったのだが、夜遅いのでまた後日謝罪に来させるとノボリは言い、菓子折を私に手渡した。うわ、これ某高級店のなんですけど! 「もう地下鉄にはお乗りにならないと、様はそう仰いましたが、私共ずっとお待ちしております。」 深々と下げられた頭を見下ろしながら、私は狼狽する。しまった、すごい気にされてるどうしよう。乗らないとは言ったが、所詮しがない会社員の私にはどうあっても移動手段に地下鉄は必須である。つまりは言葉のあやだったのに。取り敢えず頭を上げてくれるよう何度か頼むと、彼は本当にすまなそうな、そして酷く寂しそうな顔をしていた。 ああ、きっとマスターだけに地下鉄を愛しているのだろうな。 場の勢いでそれを否定してしまった自分に猛烈な罪悪感を覚えつつ、遅くに申し訳ございませんでしたと再度頭を下げ踵を返すノボリを咄嗟に引き止めた。 「あの、えーと、やっぱ地下鉄には乗せて下さい。営業もあるし……。」 「っ様!」 振り返ったその表情ったらなかった。双子の片割れよりぎこちないながら、目を輝かせ微笑んだ彼は私の手を両手で握り言う。「それではまた明後日の朝にお会い致しましょう!」 手袋のない温かな手に少しだけ感動しながらドアを閉め、そこではたと気付く。ちょっと待てあの男、何で私がいつも水曜日地下鉄に乗ること知ってるんだ。 「この時間に歩いてここを通るのは感心しませんね、。」 振り返った反動で首がごきりと鈍い音をたてる。痛い、痛すぎる……これ首死んだな。涙で滲む視界には、普段の制服も帽子もないノボリの姿が辛うじて映った。何でいるの、そう問いたいのは山々だったのだが、それより先にノボリが私の手からバッグとコンビニ弁当を奪い言う。「前にも散々言った筈ですが?」 「私も散々言いましたけど、考え過ぎですよノボリくん。家までのたった十数分で私相手に犯罪が起こる確率がどんだけ高いと思ってるんですか。」 「数分あれば貴女を無理矢理車に押し込むことも、手足を縛って口を塞ぐこともできます。何故私を呼ばないのです?」 「そのナリじゃ寝てた訳じゃなさそうですけど、君の朝は早いから。」 不機嫌そうに目を細めた彼は答えず歩き始める。私のアパートまであと数分、たったこれだけの距離の為にノボリは来たのかと申し訳なく思っていたら、前を歩く背中が突然止まった。俯いていた私は危うく彼に頭突きを喰らわす所だったがなんとか踏みとどまる。 骨の軋む音を我慢し顔を上げれば、ノボリは私に向き直った。 「貴女の自己犠牲は私にとって辛いだけなのです。」 「は?」 え、何まさかこんな道のど真ん中で説教されるのか私。勘弁してくれ。 そう思いはしたもののしかし、いきなり自己犠牲だと言われても当てはまるものが思いつかず、私は首を傾げる。いつも大概小言を言われる時は心当たりがあるのだ。 彼は私が話を聞く体勢にあるとわかると、抑揚の少ない声で続けた。 「私に気を遣って下さったのでしょうが、今日だって貴女はこんな真夜中にひとりで帰宅しようとしているではありませんか。」 「それは自己犠牲じゃなくて遠慮というんです。」 「この前も貴女はクダリにせがまれ自分の分のケーキをあげていましたね。」 「いやそれも自己犠牲なんて大きなものじゃないでしょう。」 「ならば私と出会った時、貴女は何故周りに助けを求めなかったのですか?何故自分ひとりで何もかも終わらせようとなさるのです。」 「理不尽!」 「いいえ、理不尽などではありません。貴女のそれは最早ただの自業自得でしかない。」 これには流石に面食らった。疲労困憊の私にガチで説教してくるのもそうだが、ここまで無神経な言い回しをする彼を私は知らない。日頃の接客業で培われた人当たりの良さは時に女性を勘違いさせることもある折り紙つきなのに、そのお人好しがナリを潜めるほどに今日のノボリは酷く苛付いている。少し後ろにある自動販売機に淡く照らされた色の薄い双眸が鈍く光った。 自業自得。ノボリにしてみればそう見えるのかもしれないが、それを今、どうしてこのタイミングで否定するのか。同僚に瞬間湯沸かし器なんて揶揄される私はしかし、何度も言うが、疲れ切っているのだ。怒る気力もないまま、空になった手でまとめ髪を掻き毟りつつ言う。「うんそうね、だからこんなに疲れるのかも。」 溜息を吐き、彼の横をすり抜け歩き出した私から遅れること数歩、規則正しい足音も追って来る。と思ったら、背後から伸びた両腕が私の摺り足を強制的に止めた。 「……なに、どうしたんです?今日はやけにつっかかりますけど。」 「私は貴女にとって、頼る価値もない男ですか。」 耳元の声には覚えがあった。真面目で融通の利かないこの兄と正反対の弟が、私のケーキが欲しいと駄々をこねた時の声である。 「何ですかいきなり……ていうかちょ、おま、苦しいんですけど、」 「悔しいなら泣いて下さい。疲れたなら眠って下さいまし。」 「こんな道のど真ん中でか。」 「そうすれば私が貴女を背負って差し上げる口実ができます。」 普段人前で私に触れようともしない男が、真夜中で人通りがないとはいえ、公道で私を抱き締めている。その事実に今更気付いた私は、思わず後ろの彼の腕にしがみついて、それから砂で汚れたパンプスに涙を零した。ノボリは何も言わなかったが、珍しく私の首筋に頬を擦り寄せ、甘えるような素振りを見せる。きっと彼も疲れていたのだろう。 結局泣いて更に疲労を溜めた私はそれでも遠慮もとい反対したが、有無を言わさずノボリは私を背負った。この年でおんぶされるなんてもう嫁にいけんわ、そう冗談めかしたら彼は鼻で笑う。私の所に来れば宜しいでしょう、そう言える様になるまで彼がどれだけ苦労し努力したか、私は最近クダリに聞くまで知らなかった。 私がノボリと会話したあの日よりずっと前から、彼は私を見てくれていたらしい。だから彼は私が水曜に地下鉄に居ることを知っていたのだ。 “は気付かないし、ノボリは何も言わないし、だからあの日僕は君を無視した。” “いやいやいや、まさか君私が絡まれてるの見てたの?” “うん。だって僕が行ったら僕の管轄になっちゃう。” “クダリ!それは職務怠慢というのです!” 話の途中で御本人が入ってきてしまったのでそれ以降を知らないが、私達が顔見知りの間柄になってから恋人という位置に収まるまでまた長い時間が経っているので、彼の片思いの時期はさぞ大変だったのだろう。と言うと流石に自意識過剰過ぎるから、あくまでもこれは都合の良い私の頭だけの想像である。 「」 「何でしょう。」 「明日も仕事ですか?」 「そうですよ。」 「では、今度こそ私がお迎えに参りましょう。」 「それはどうもありがとうございます。」 「眠っても構いませんよ。朝になったら起こして差し上げます。」 「うわあ有難いなー……すみません限界です、取り敢えず全速前進。」 ノボリが笑う所為で揺れる背中、その上で意識を飛ばす寸前にふと気付く。あれ、この男ちゃっかりウチに初お泊りする気か。 いつまでもクソ真面目でストイックな彼は、先程の如くキッカケがなければ言葉に出来ない程シャイでもある。そんなノボリがもっと自分を頼れと求めるのなら、彼の作る朝ごはんが食べたいという私の少しばかり理不尽な要求に付き合ってもらうのもいいかもしれない。 誰が為に働く 20111013 |