親愛なる我が友へ

 そちらはまだ雪と氷の中でさぞ寒いことでしょう。教会への小道も雪で埋もれて、お祈りするにも一苦労かもしれません。貴女は冬に産まれたくせに酷く寒がりなので、私が居るこの島の暖かな陽気を知ったら悔しがると考え、中々ペンを取れなかったのです。寂しい思いをさせたならごめんなさいね。





 は残り火燻ぶる暖炉の前で、少し皺の寄った便箋片手に微笑んだ。悔しがるだなんて、一体いつの話をしているのだろう。ずっとずっと昔、まだ自分の足で広い庭を駆け回っていた頃は確かに負けん気の強い性質だったけれど、今のは淑やかなる女性である。病に足を奪われはしたが立ち上がれない訳ではないし、それなりに働き伴侶を迎え、穏やかな日々を送っている。その一部として、海を旅するこの友人の手紙があった。



“そんなとこから庭眺めるのも飽きただろ?”
“だれ?”
“降りて来いよ、いいもの見せてやるから。”



 文面は女性のものであるが、相手はれっきとした男性である。幼い時分からの高い身分をものともせず、屋敷に篭りがちな彼女に色々なことを教えた彼は、ある日突然海に出てしまったのだ。お前を治せるようになって帰って来るからと、泣きじゃくるをいつまでも見つめながら海の青に消えていった彼。彼の存在を思い出させるものをの夫は嫌がるから、今では手紙だけが彼を思い出す手段である。勘の良い彼は、自分の手紙をの夫が良く思わないことを見越し、わざわざ偽名を使い女性の振りをして手紙を出すようになった。



“ローは何でも知ってるのね。”
“少なくともよりはな。”
“いいなあ、どうしたら貴方みたいになれるかしら?”



 年中快適な温度設定の屋敷を一歩出れば、寒風吹き荒ぶ厳しい自然が見えた。雪の白さと冷たさを知った。絵よりも美しい氷の海の波音を聞いた。すぐにしもやけを作る手を握り擦ってくれる彼の手の温かさを覚えた。好奇心旺盛なの疑問全てに的確な答えを与えた彼はしかし、この問いにだけは曖昧に笑った。



“さあな。けどこれだけは言えるぜ。”



 俺はお前が思うよりずっと、色々なことを知ってる         







 その日は冬にしては珍しく気温の高い日だった。昨日までの吹雪が嘘のように星がまたたく透明な夜空の下で、は1人の使用人に負ぶわれて、広い広い庭に出た。背後の発砲音、悲鳴、爆発、怒号。とうとう火の手が上がった屋敷を振り返り、彼女は竦み上がる。自分達を追ってきた海賊はすぐそこだった。
 何故こんなところまで海賊が来る。
 家から海までは結構な距離がある。港町に海賊が現れたなんて記事は新聞に出ていなかったから、きっと海からここまで隠れて来たのだろう。しかしそれに何の意味があると言うのか。確かにの家はここら一帯を治める有力な権力者のものであり、金品や芸術的に価値の高い品もあるけれど、それとて貿易の中継地点として栄える港町に比べれば微々たるものだった。それに港からこの街に来るまでには海軍の駐屯地がある。大きな危険を冒してまで、彼らは何を奪いに来たのだ!

 生来の穏やかさと、病弱故に温室の花の如く大事に大事に育てられてきたは、その時背を辿り落ちる鋭い激情に身震いした。生まれて初めて知った憎悪が血液に乗って全身を巡る。寒くて震えているのか、怒りに震えているのか、それも解らぬ程頭の中は真っ白になった。数人に追いつかれ、髪を引かれ背から落ちたは、目の前で喉を貫かれた使用人を腕に抱き守るようにしながら吠えた。



「こんな、こんな酷い行いを神は許さない!貴方達はいつか地獄の門をくぐるんだわ!」



 今まで出したことの無い怒鳴り声は、掠れ裏返り震えていた。自分に向けられた刃、それを持つ人間への恐怖と、胸を掻き毟る程に苦しい嚇怒が綯い交ぜになって、ぽろぽろと涙に変わる。幼い頃、まだ見ぬ自由を手に入れようと躍起になっていた時の感情に似ていた。どうにもならない血と宿命に諦めることを覚えてから、同時に心の奥底に置いて来た筈の負の情念が決壊する。
 とその時、の目の前にあった剣の切っ先が視界から消えた。



「知ってるさ。言ったろう、俺はお前が思うよりずっと、色々なことを知ってんだ。」



 それは遠くから聞こえた声だったが、轟々と燃え盛る炎の音よりも早くの耳に届く。聞き覚えの無い声だったけれど、その言葉には心当たりがあった。彼女はとうに絶命した使用人の肩から腕を抜くと、ゆっくり立ち上がり、そしてゆっくり顔を上げた。手紙の主が其処に居た。
 帽子を目深に被った彼は、まだ火の手の及ばぬ屋敷の一室からを見下ろし笑い、窓枠に頬杖をついていた。の記憶に遠く及ばないそんな気だるい仕草を覚えた青年と、彼女の立ち位置は昔と間逆である。彼は暫しを通し懐かしむように目を細めていたが、やがて首を横に振ると窓から飛び降りの傍まで歩いて来た。後ろ手に何かを引き摺っている。はこれ以上ない程目を瞠り、息を呑んだ。



「何故………こんな、どうして」
「何故!この期に及んで解らねえのか!」



 大袈裟に驚き、これは傑作だと肩を揺らす彼。その両手は真っ赤に染まっている。地面に転がる彼女の夫を片足で小突きつつ、ひとしきり笑った後“部屋”を作り上げ、そして彼女の白く細い足を片方断つ。バランスを崩し尻餅をついたは、己の足を放っては受け止める彼の手を茫然と見つめた。最早頭も心も空っぽである。先程感じた沸騰する激烈な感情は、酷い虚無感にすり替わっていた。






きっと貴女は私を怨んでいることと思います。泣き虫な貴女を慰める役を放棄し、共に過ごした街を捨てて、遠い遠い世界に飛び出した私を。


 近況報告だけにとどまらなかった一番最近の手紙の文面が浮かんだ。


あの日から随分と年月が経ってしまった。もしかするともう私を必要としなくなったかもしれませんが、それでも私は近く貴女の元に戻ります。そして今度こそ、ただひとつ私が答えを濁してしまった貴女の純粋な問いに答えましょう。



 背の高い彼越しに、屋敷が崩れていくのが見える。その轟音に振り返ることもなく、彼女に刃を向けていた者を含め数人の部下を片手1つで追い払い、彼は低く落ち着いた音程で声を紡いだ。




「………。」
「お前は相変わらず何も知らねえままだな。無垢で、純粋で、馬鹿で、それから」



 「どうしようもなく愛しい。」彼の手がの片足を後ろに放った。芝生に落ち踝を打ち付けた感覚があるのには悲鳴を上げる。



「俺がお前をそれこそ馬鹿みてえに好いてることなんて知らなかっただろう。」
「ひ、!」
「手紙書きながらこの男をどうやって殺そうか、それしか考えてなかったことも。」



 ちなみに心臓を握り潰してやった、そう言って真っ赤な掌が近付いて来る。腕だけで後ずさるを嘲笑い、彼は緩慢な動作で跪いて、もう片方の彼女の足を恭しく手に取った。震えてる、と呟く彼は次いで小さな足の甲に唇を落とす。



「お前がお前である限り俺にはなれない。それと勘違いしてるみてえだが、俺はお前が思う程自由でもない。けどそうだな、それでもお前がお前の中の俺みたくなりたいのなら」



         全て捨ててしまえばいいのさ。



 を捨てられなかった。それだけだった。彼は怯える足をまだ強く握っている。感覚も鈍いくせに、触れた唇の異様な冷たさだけはの脳まで届いた。






それではまた会う日まで。

貴女の思い出より愛を込めて。



 P.S. 貴女はまだ歩けないでしょうか。もしそうなら嬉しいなあ。





 ひょっとすると治してくれるのだろうかと思ったに違いない。彼もまた最後に出した手紙を思い出し、堪え切れず喉を鳴らし笑った。
 治しはしない。薬さえ飲めば時間はかかれどまた足を動かせる病だが、周囲はを手放したくないばかりにそんなことさえ彼女に教えなかった。誰もがを愛し、慈しみ、己の傍に置きたがる。自分とてそうだ。逃がしはしない、手放しもしない。海賊は目的の為の手段として格好の業だった。はあの日海へ出た自分が、彼女が言う所の罪深き人間になっていようとは夢にも思わなかっただろう。



「まあいい………地獄に道連れだ。」



 神も彼女を愛するだろうけれど、渡す訳にはいかないのだ。腕に閉じ込めたは変わらず温かい。












ある日の追憶






20110301