彼の人は無駄な言葉を好まなかった分、私は名を呼ばれることに一番の幸せを見出した。今のように呼ぶ時は相手をしろと命ずる時だったから尚更だ。ところが私がいそいそと準備をする間、今日は珍しく元就様が話し始めた。互いに盤を挟んで向かい合い、自陣に駒を並べながら、淡々と語られるその内容は長曾我部との戦についてである。
 最近の動向として、向こうがこちらの海域まで踏み入っては、毛利方がそれを牽制するという不穏な繰り返しが続いていた。城内での張り詰めた空気を私も知っている。そしてどうやら、長曾我部軍はとうとう本格的に動き始めたらしい。



「我は明日発つ。そなたとの対局も今宵でひとまず終いぞ。」



 元就様はそれきり口を閉ざした。


 ひとまず、と付けてくれたのは私があまりに酷い表情をしていたからかもしれない。元就様の出立は知っていたが、いざ本人から聞かされると自分でも解るほど動揺し、こともあろうに涙まで浮かんでくる始末である。この方の前でそんなみっともない真似は出来ぬと、流れ落ちるのだけは阻止したけれど、残念ながら私の頭は将棋どころではなくなってしまった。
 元就様と共に居る時間が以前より増えた分、最近ではこの方が中国を抱える長だということをすっかり忘れていた。しかし国を護るために、自ら仕掛けることはなくとも敵を迎え撃つ必要はある。そしてそれは盤上の戦ではなく、実際に人間を少なからず傷付けまた傷付けられるものに他ならない。場合によっては命すら落とす。元就様は部下を動かす立場にあるが、自己も駒のひとつだと断言できる方である。毛利家の、果ては中国の為ならば、この方はきっと迷いなく傷付くことを許し、命を投げ出してしまうだろう。勿論元就様の采配を信じていない筈はなかった。なかったのだが、奇妙な胸のざわつきを覚えた私はとてつもない不安に襲われたのだ。今目の前で駒を盤に置く白い手が輪刀を持つなど考えたくもなかった。

 とはいえ元就様の御相手を放棄する訳にはいかない。必死に駒の進め方を考えるが、冷静さを取り戻そうとすればするほど嵌り込み、対局が始まってものの十数分で私は早々に追い詰められてしまう。元就様は何も言わなかったが、私の方は呆れるほど悪手ばかりである。いつもと比べ随分と早い王手から逃れる策を何とか閃き、私が持ち駒からひとつを選んで盤に置いた途端、今まで緩やかに己を扇いでいた元就様の扇子が動きを止め、ぱしんと閉じられる。そうして駒の配置を見つめていた私の視界に突然その扇子が入って来たかと思うと、たった今指した歩を軽く叩いた。



     二歩。



「そなたの負けだ。」



 特有の冷笑を零し、武将にしては華奢な痩躯がすう、と立ち上がる。つられ見上げた私を元就様は決して振り返らない。そのまま音もなく障子が閉ざされた途端、耐えに耐えた涙が一気に落ちて将棋盤を濡らした。盤上に覆い被さる様に、胸元を握り締め身を屈めて、私は此処に嫁いで来て初めて泣いた。幼い頃から周囲の厳しい叱責にも、言い様の無い孤独感にもそれなりに晒されたけれど、泣くことなど滅多に無かった。涙を見せることを恥と思ってきた。
 それなのに、彼の人の一言にこんなにも心乱され不安に陥り、あまつさえ泣いてしまうなんて。今更ながら気付く。自分の憧憬は、既に恋情にすり替わっているのだ。











 それから、どれほど経っただろうか。


 結論から言えば、毛利軍は長曾我部軍を退けるのに成功した。しかし父上に昔聞いた、長曾我部軍の火器に今回も手こずったようだった。更に戻って来た兵の傷付き様や人数、軍の多大な損害を見れば、退けたというよりは向こうが兵を退いてくれたのやもしれぬと、私でも疑うほど此方は今度の戦で疲弊していた。元就様もまた然り、彼の人は長曾我部元親と刃を交えた挙句、深手を負って今も床に臥せている。


 それでも、戻って来てくれた、ただそれだけで私は心底安堵した。喉を通らなかった食事を摂れるようになり、また眠れるようにもなったので、侍女達は元就様の帰還の祝いもそこそこに、恋煩いも程々になされよと私を揃ってからかったが、それに苦笑いを返せるくらいになった。尤も傷を癒し、軍の立て直しを図り、周辺国を牽制しておかなければならない以上、元就様が私の所に来ることはないだろう。そう思うといささか寂しくはあったが、兎にも角にも、あの不甲斐無い対局が最後にならずに済んでほっとしていたのだ。
 ところがある日、読書をしていた私の元へ、お付きの侍女が神妙な表情で部屋に入って来て言った。「元就様が、様を呼べと。」

 はて、あの方はまだ静養中で起き上がることもままならぬと聞いたが。

 私は訝しみながらも頷くと、本を閉じ元就様の寝所へ向かう。自然と早足になるのが余程可笑しいらしく、後ろの侍女が堪え切れない笑い声を静かな廊下に落とした。





 いくら将棋や碁が強かろうが、兵法に多少通じていようが、私は一度も戦に出たことが無い。だからこそ元就様に勝てるのだ。盤上の駒を実際の戦と切り離してしまえる彼の人は毛利家の為に心を殺す術を知っているが、それでも無意識だろう、元就様は守りに徹したがり攻め手が私より僅か遅れる。己の死が常に傍にある元就様と、滅多に人の死を身近に感じない私とでは感じる恐怖が違う。
 だから、瞬きひとつせず天井を見上げる傷付いた元就様の姿に、私は心臓を握り潰される心地がした。敷布から伸びた手が傍の畳を2度叩くのに頷きながらも、その場に行こうとする両足は棒のようである。



「元就様、」



 震える膝を折り座って、呼んだ名は情けなくも震えていた。元就様は瞳だけを動かし私を見上げ、そして掠れた声で小さく揶揄する。



「少し痩せたか。」



 大方、誰かが最近の私の様子を伝えてしまったのだろう。私が俯き黙っていれば、先程畳を叩いた指がゆっくりと動き、膝の上で握った拳に僅かながら掛けられた。さらしの隙間から赤黒く焼け爛れた手の甲が見え、思わず息を呑む。それに鼻を鳴らした元就様は、長曾我部の火器はまだ試作段階だったようだ、と珍しく少しだけ面白くなさそうに言った。向こうの兵器は、毛利方だけでなく味方諸共吹き飛ばしたらしい。しかしそのおかげで長曾我部軍は退却を余儀なくされ、元就様も何とか戦線離脱できたのだ。
 私は注意深く傷だらけの手を取り、自分の掌を重ねる。元就様は暫く何も言わず私から視線を外し、またじっと天井を見つめていたものの、不意に口を開いた。



「よもや餓死など馬鹿な真似をするつもりではあるまいな。」
「まさか。」



 返した言葉は冷静だったが、私は心底驚いていた。


 ああ、この方は私の想いに気付いている。この方はよもや我の為に、と言っているのだ。






「勝ち逃げは許さぬぞ。」
「勝ち逃げも何も、元就様は勝利されたではありませぬか。」
「あれはそなたが勝手に勝負を投げ出しただけであろう。」
「勝ちは勝ちにございます。それに、あの時御出陣の話をなさったのも策の内でございましょう?」



 すると元就様は微かに口端を上げ、遊び如きに姑息な手は使わぬ、と囁いた。今更ながら気付いたがそれもそうだ。この方は戦場において冷酷無比に兵を捨てるが、何も手段を選ばぬその勝ち方を好んでいる訳ではない。毛利家の為だけに生きる元就様にとって、勝利さえ手段のひとつでしかないのだ。そこに感情は存在しない。

 ならば自分と向かい合ったあの時間は、少しでもこの方の気休めになっていたのだろうか。純粋な勝負として受け止めていてもらえただろうか。
 いつの間にか瞼を閉じている元就様に問いかけるには自信がなかったし、問うたとしてもこの方は一蹴するに決まっているので、私は未だ両手の内にある戦人の手をそっと撫でた。傷がある分酷く熱い。生きているからだ、そう思えばこの方の物言わぬ静寂さえただ愛しかった。何とはなしに微笑む私に気付き、元就様が吐き捨てるように言う。「前言撤回だ。」



「これしきの傷に涙するのなら、例え男に生まれようとも武士には向かぬわ。」



 幼少より飽きるほど言われ、元就様もいつか言った言葉。それを初めて否定された。



「そなたはやはり此処で帰りを待つのが似合いぞ。」



 疲れたのだろう、元就様はそう言ったきり、今度は本当に眠ってしまった。私の手は元就様の手の上にあったので、涙が火傷に落ちず済んでいる。そのことについて他人事のように安心しつつ、私はそれでも、と思う。


 それでも私は男に生まれたかった。待つしか出来ぬ女の身ではなく、元就様の傍に、駒でも盾でも構わないから、傍に置いて欲しかった。盤上で向かい合うより、戦場に立ち同じ先を見ていたかった。




 けれど現世で生まれ変われぬ以上、結局元就様の言う通りこれからも待つ身である。ならばせめて、私は元就様の言う“遊び”を、この方の拠り所にしてみせよう。毛利の血に生き、そして死ぬであろう元就様の、束の間の休息の相手になろう。

 私は声を殺し泣きながら、もう二度と負けないことを重ねた手にひっそりと誓った。













研ぎ澄まされた指先








20100823