姉上方と違い、歌や華に微塵も興味を抱けなかった女子らしからぬ私に乳母が手を焼くのを知った父上は、以来時々こっそりと、漢詩や碁、時には兵法を子供遊びながら教えてくれるようになった。そしてその中でも碁や将棋は肌に合っていたらしい、気付けば飛車角落ちで父上に勝てるほどには腕を上げてしまっていた。となると、最早私に挑む相手は居ないことになる。兄上姉上は父上より弱かったし、弟妹もまた然り。家臣の中には面白がって勝負を挑む方々も居たけれど、私の負けん気の強さもが災いして、いくら陰で男に生まれればさぞ賢明な武人になったであろうになどと揶揄されようが、彼らも完膚なきまでに負かしてやるのが常だった。そんな私に父上は笑う。「もうこの家に飽きてしまったであろう。」


 勿論だからという訳ではないが、毛利家への輿入れが決まったのもこの頃で、私は丁度十四になったばかりであった。





 甘やかされた私にとって、元就様の無機質で殺伐とした雰囲気、慣れない環境に、側室としての振舞い、その他全て恐怖でしかなかった。故に与えられた部屋から出られず、私は篭りがちになった。私に付けられた侍女らに手習いを施される一方、彼女達に碁や将棋を教えて過ごす日常は退屈であったけれど、何より平和である。幸い元就様はとてもお忙しいのと、既に御子を授かっているのもあってか、私に対し無関心だったので特に不都合はなかった。元はと言えば元就様に召し抱えられたのも、単に父上が元就様の家臣というだけの薄い縁である。
 がしかしその薄い縁の為、私が碁や将棋を齧っていることが元就様の御耳に入ってしまったらしい。彼の人は基本的に家臣を私事で傍に置くのを嫌うが、稀に父上は碁の御相手をしていた。きっとその時私のことを話したのだろう、ある日突然私の部屋を訪れた元就様は、平伏する私に淡々と告げた。「相手を致せ。」


 互いとも既に夜着だったので、私は伽の御相手をするのだとばかり思い、元就様を目の前に早鐘の如く打っている心臓が更に落ち着かなくなった。しかし元就様はそんな私を気にも留めず、そなたはどちらが得手か、と問う。



「え」
「我はどちらでも構わぬ。」



 私は思わず顔を上げた。ちらりと視線だけで指されたのは、昼間侍女達と興じていた将棋崩しに用いた盤である。



「あ……。」
「何を惚けておる。」
「は、はい只今!」



 何故元就様が前触れもなく此処に来て、相手をしろと言うのか。すぐにぴんときた私は心中で父上に恨み言を吐きながら、座した元就様の御前へ慌てて将棋盤を置き、駒をしまった桐箱を開ける。将棋崩しに使うような駒を、一等物しか手にされない身分のこの方に使って頂くのもどうかと思ったが、生憎他に駒はない。そんな私の懸念を余所に、元就様は別段気にした風もなく、黙って自陣に駒を並べ始めた。


 元就様は今まで私の相手をしてくれた中の誰より強かった。当たり前と言えばそうなのだけれど、戦においても合理的に兵を動かし戦況を意のままに動かす御方である。盤上でもそれは変わらず、先を読み辛い元就様の秀逸な手に、私はいつしか本気で相手を負かそうとし始めていた。一方で元就様も、相変わらず表情はないが時折手を止めてじっと考える素振りを見せるので、自分は一応御相手として成り立っているのだろう。
 言わずもがな私は元就様に勝つことはできないと思っていたし、万が一勝ってしまったらそれこそ首でも刎ねられるのではなかろうかと内心びくびくしていた。しかし、いざ自分が負けそうな状況に陥ると、日々の淑やかな生活では鳴りを潜める負けず嫌いな心持ちが蘇ってしまう。楽しみ始めると夢中になって、気配りを忘れるのは私の悪い癖である。夜も更け空が白み始めた頃、私が指した一手に元就様が一瞬目を瞠った。と同時に、私は思わずあ、と呟く。


 残り十数手の読みが外れていないならば、元就様に逆転の手はない。私は途端に舞い上がった。心地良い緊張の糸を解き、勝利の喜びにほっと息を吐く。もしかしたら笑っていたかもしれない。しかし、その嬉しさは長続きしなかった。この城に上がってから今まで、一度も呼ばれたことのなかったという名を、元就様が不意に口にしたからである。


      か、勝ってしまった!

 
 すぐに我に返った私は、自分がとんでもないことをしでかしたのに恐れ慄いた。冷たい声色で紡がれた名前に背が凍り付き、頭を下げることはおろか身動き一つ取れない。冷汗が額に滲む。元就様は中途半端に頭を垂れ硬直する私に溜息をひとつ吐くと、おもむろに立ち上がり音を立てず障子を開けた。吹き込む風に乗り、低い声が届く。「また来る。」









 それからというもの、元就様は昼夜問わず度々部屋を訪れては私に相手をしろと命じた。二度目は前回の反省を教訓にギリギリのところで手を抜いたのだが、あっさり見抜かれ逆に叱られてしまった。



「貴様、誰が手抜きを許した。」
「も、申し訳ございません!あの、しかしながら私、その、以前殿に酷い無礼を……。」
「構わぬ。たかが戯れの勝敗に一々拘る我ではないわ。」



 そうして毎度、寸での所で私が勝った。流石に五連勝した辺りで自重しようとしたものの、元就様はすぐに気付いてしまう。先手を打って咎められれば私に成す術はなく、また内心それを嬉しく思いながら対戦は続き、その回数は二十を越そうかという所まで来ていた。
 会うことに慣れ、あの乏しい表情や抑揚の無い声に耐性がつけば、元就様と過ごす時間は心地良いものだった。元就様は私を側室としてではなく、単に暇を潰す相手としてある意味対等に扱ってくれる。元就様は元就様で少しは気を許してくれたのか、時折茶の席に招いてくれたり、感想戦の傍ら酌を許されることもあった。距離が近くなるほどこれまで感じていた恐怖は薄れ、代わり私は元就様に憧れに限りなく近い情を抱くようになっていた。



「我の負けか………誠に惜しいな、そなた男子であれば戦場で使ってやったものを。」
「お褒めに預かり光栄にございます。」



 故に厭味でも何でもない元就様の讃辞は素直に嬉しかったが、同時に悔しくも思った。本当に男に生まれていれば、この方は私をずっと傍に置いてくれただろうか。